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2013年04月28日

<心霊スポット>岩手県 【慰霊の森】体験談まとめ


@
あの場所は決して遊び気分で行ってはいけません。
友人の体験談をお話します。
夜に肝試しに行きました。まず、現地に到着し車を置きました。その後、写真を撮りながら歩いていたそうです。
異様な空気のもと、その場は何事もなく家に帰りました。写真を現像したときに、とんでもなかったそうです。足元にびっしりと複数の人の顔がある写真。背後から振り返り、にやついている男性が居る写真。皆の集合写真の背後に、埋め尽くす人の顔。そのあと、大変な目にあいながら処分したようです。

別な方の体験談です。
数人でツーリングしながら、慰霊の森に行かれたそうです。
森の奥に行ったあたりで、かなり嫌な雰囲気になり慌てて引き返したそうです。ところが出口まで来たとき一人だけ居ないことに気づいたそうですが、深夜だったため朝方に戻ってみたら、バイクの横で笑いながら座っている友人がいたそうです。
今でも、岩手医大の精神科に入院しているそうです。

最後に個人体験です。
姉と行きました。夜はやめようと昼間に行ったのですが、入り口から少し入ったとこらから雰囲気がおかしく、吐き気が止まらなくなり引き返しました。

あと質問にある「フロントガラスに大量の手形」とありますが事実です。
駐車場に車を置いて出かけます。帰ってくると前駐車していたはずの車がバック駐車に変わっていて、血の手形が車中に付いていたという体験談はあります。

慰霊の森は半端なく危険です。決して、遊び気分では行ってはなりません。
異例の森の限らず、全てのスポットには遊び気分で行くべきではありません。
あとから後悔するほど地獄を見ます。





A
友達3人と行った時は何もなかったです。

一週間後にスリルを味わいたくて、一人で行ったんです。が。

車の窓、フロントガラスですね。パチュッっていう音がして、

キターと思って、車を降りた瞬間に立ちくらみ、立ちくらみ、立ちくらみ立ちくらみ立ちくらみ。

で、車にもう一回乗ったんですよ怖くて、、、

もう何があっても目をつぶり、開けないつもりだったんですが。

このままじゃ帰れない・・・目を開けて・・・運転しよう。

・・・家に帰る。

骨?みたいな指見たいのが7個、後ろの窓に。

二度と行かない。行かないことをお勧めします。


B
私自身は行ったことはないですが、
後輩の話によるとサークル仲間と訪れたら、手形どころか車は急に動かなくなるし、エライ目に合って帰ってきたらしいですよ。

それ以外に霊感のある方はその前の道でたくさんの幽霊が歩いているのを見たそうです。特にあのあたりは御所湖があるため霧が立ちこみやすくその霧のときは注意したほうがいいそうです。


C
私は、この「慰霊の森」の原因となった全日空機と自衛隊機の衝突時に空中を流される被害者の姿を目の当たりにしたひとりです。
これから、お話しする内容は、全て事実ですが、興味本位で、死んだ方々の心を傷つけるようなことだけは是非ともお止め下さい。もし、表現で不愉快になった場合は、心からお詫び申し上げます。
さて、私が中学1年生の初夏の頃だったと思います。
当日は、雲ひとつない爽やかな日で、私は友達の誕生日パーティーになんとか混ぜてもらい、友達の家でお菓子を食べていました。午後三時過ぎだったと思います。いきなり大爆音がしました。なんだ?と思うと、テレビに緊急速報で、自衛隊機と民間機が衝突したという速報が入りました。皆は自分らが住んでる町のすぐ西側にある秋田駒ケ岳上空ということで、すぐに外に出て、そちらの方向を見ました。
当然、雫石から衝突現場までの距離は40kmくらいあるので、そんなの見えるはずもないかと思いきや、はるか上空で衝突して破壊された残骸が偏西風に流されて、この町内の山まで流されてきました。その流されている時見た黒い粒粒が人の姿だったのです。幸い、町内には機体の小さな一部やガラス片が降ってきただけでした。しかし、形状のしっかりしていた部品や人は、雫石町内を超え、慰霊の森となった山まで流されたのです。
大人は五体がばらばらになり、子供はそのままで、地面に数メートルめり込む形で落ちてきました。
当時、遺体の発見は比較的スムーズにいったのですが、ばらばらになった遺体は悲惨だったようです。
その遺体をつなぎ合わせ、町内のある場所に集められ、その後町内にある寺で供養されました。
わたしは、小さい時から霊を見る能力ももっていたのですが、何かノコノコ(蝉の幼虫の方言)を取りに行こうという声に誘われ、その寺に遺体が供養のため持ち込まれていることも知らず、寺の敷地内にある杉の大木でひとり遊びをしていました。すると、寺のお堂から何人もの人が出たり入ったりしていました。
しかし、その姿はまるで影が意志をもって動いているようでした。その影のひとりが、私に気付き、声をかけてきました。
「おい、ボク。ここはどこだ?」
「ココ、ココは雫石だよ」
「雫石ってなんだ?」
「盛岡の横だよ、知らねえの?」
そう言う会話をすると、その影は苛立ってお堂の中に入っていきました。
同じ頃、慰霊の森となる森の入口付近で、タクシーや車を必死で停めて家に帰ろうとした方もいたようです。
事故に遭われた方々は、自分が死んだことにまったく気付かなかったと思います。
その後、自分はその寺に行かなくなり、どうなったのか知りませんが、寺でのそのような噂話しは聞こえてこないので、なんとかなったのでしょう。ただ、慰霊の森は分かりません。私はどうしても行くチャンスがないんです。多分、拒否されているのでしょう。
余談ですが、その事故が起こる数日前、戦闘機と飛行機が衝突し、その慰霊の森に多くの鶴が降り立つ夢を見せられました。
私は、その頃、飛行機はすべて鶴のマークだと思っていたので、全日空機だったのですが、合わせたのでしょう。
この事件は、当時を思い出すと、悲しみと恐怖が蘇ります。どうか、事故に遭われた方々が早く成仏できることを心からお祈りします。どうか、興味本位では決して行かないで下さい。苦しんで死んだ人の心を傷つけないでください。


D
まず岩手で最も有名な『慰霊の森』ここは、過去飛行機と自衛隊機が衝突し墜落した場所であり、霊感の強い人は近くに行っただけで寒気がしたり吐き気がしてしまいます。


免許取立ての若者が一度は行くスポットでありますが、その時は、なにもなくても連れて帰ってしまって後で怖い思いをした人は、数知れません。


私の会社の同僚も5人で肝試しに行き、その後5人とも会社で作業中右腕を火傷してしまいました。
後日その時撮った写真を見たら、火傷した見知らぬ男性が写っておりました。


又行った帰り道事故を起こしたり、金縛りにあったり下の県道で深夜車を止められ、静岡まで乗せていってくれとか血まみれの男に言われたり、とにかくやばい所です。


今回は、一例ですがこの場所では、今まで数え切れない程の話を聞いています。
とにかく面白半分では、行かないほうが良いと思います。

E
私は怖い話は好きですが、心霊スポットというのはいまいち信用していません。
そんな私が唯一「ここはやばいだろう。」と昔っから思っているのがこの慰霊の森です。
ちなみに私は行った事はありません。他の心霊スポットには行けるのですが、
ここだけはなにがあっても一生行かないでしょうねぇ。
父の実家が雫石町にあるのですが、祖母の話によるとあの飛行機事故は本当にひどいもので、
人の手足やなんやらが物のようにそこらへんに落ちていたらしいです。祖父母も遺体回収作業
の手伝いをしたと言っていました。
私が中学生の時の家庭教師の話です。
大学のサークル仲間と遊び半分で慰霊の森へドライブに行った時、雨が降った日でもないのに
水溜りの上走っている音がずっとするので「おかしいなぁ」と思い窓を開けて下を見ても
道は乾いてるし、後ろを見てももちろん水溜りなんてなかったそうです。
「きゃー!怖いね!!」なんてふざけながら窓を閉めようとボタンを押したところ、
いつも閉まるはずの窓が閉まらない。特に古い車というわけでもないし、いままでそんな事
なかったのでみんなパニックになって慌てて慰霊の森から出て、街灯で反射したフロントガラス
を見たところ、二つの手形がまるで腕を広げたかようにべっとりついていたということでした。
行く人行く人「あそこはやばい。」と言うので、祖父母の家に行く時はいまだ慰霊の森は
見ないようにしています。ちなみに私の実家は、あの松園の空家の近くです。
ここは通るたびしっかり見てますけど・・・(^^;


全日空機雫石衝突事故


全日空機雫石衝突事故(ぜんにっくうきしずくいししょうとつじこ)は、1971年7月30日に発生した航空事故(空中衝突)である。

岩手県岩手郡雫石町上空を飛行中の全日本空輸の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が飛行中に接触し、双方とも墜落した。自衛隊機の乗員は脱出に成功したが、機体に損傷を受けた旅客機は空中分解し、乗客155名と乗員7名の計162名全員が犠牲となった。1985年8月12日に「日航ジャンボ機墜落事故」が発生するまで、最大の犠牲者数を出した国内の航空事故であった


衝突までの状況

1971年7月30日、千歳空港午後12時45分発の全日空58便(ボーイング727-281 機体記号JA8329)[2][3]は、折り返し当便となる全日空57便の到着がすでに45分遅れていたため[3]午後1時25分に定時より45分遅れて地上滑走を開始し、午後1時33分に離陸した[4][3]。

58便には、機長K.S.(当時41歳)、副操縦士T.K.(当時27歳)、アメリカ人航空機関士D.M.K.(当時30歳)、客室乗務員T.M.(当時22歳)、S.Y(当時24歳)、S.H.(当時23歳)、S.K.(当時23歳)の乗員7名と乗客155名が搭乗していた[5]。

乗客のうち122名は団体旅行客で静岡県富士市の吉原遺族会の北海道旅行団一行であった。また3人は旅行会社の添乗員であった[2]。 58便は函館NDBにジェットルートJ10Lで向かい、午後1時46分に通過した。この時の飛行高度は22,000ftであった。ここで高度を上昇しながら松島NDBに向けて変針し、札幌航空交通管制部管制所に「松島NDB通過は午後2時11分の予定」と通報した。ここから巡航高度を28,000ftに上昇し自動操縦で飛行していた[4]。

一方、航空自衛隊第1航空団松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機は、編隊飛行訓練のため有視界飛行方式による飛行計画で航空自衛隊松島基地を午後1時28分頃に離陸した。教官は訓練生に対し、離陸前に、訓練空域は盛岡であること、基本隊形(ノーマル・フォーメーション)、疎開隊形(スプレッド・フォーメーション)、機動隊形(フルイド・フォア・フォーメーション)および単縦陣隊形(トレール・フォーメーション)の訓練を行ったのち松島飛行場へ帰投し、自動方向探知機(ADF)による進入訓練を行う予定であること、編隊の無線電話の呼び出し符号はライラック・チャーリーであること、および訓練時間は1時間10分であることなどを指示したが、経路、高度については説明をしなかった[6]。

訓練空域は、横手訓練空域の北部をその一部に含む臨時の空域(秋田県横手市付近)であり、松島派遣隊は、ジェット・ルートJ11Lの中心線の両側9km、高度25,000ft(約7,600m)から31,000ft(約9,500m)の間を飛行制限空域とし、やむを得ない場合を除き訓練飛行を禁止していた[


岩手県岩手郡雫石町付近上空で午後2時2分頃、東京方向へ190度の磁針度を取って飛行していた全日空58便機と、岩手山付近上空を編隊飛行訓練していた2機の自衛隊機のうち1機(航空自衛隊機体登録番号92-7932)が、高度約28,000ft(約8,500m)で空中衝突した。教官および訓練生、約30分後に現場を通過した航空機の操縦士の報告によれば、事故当時、雫石町上空は視界は良好で下層雲が少しある程度であった[8]。

衝突の3分前、全日空機は、高度28,000ft(約8,500m)、真対気速度487kts/h(約902km/h)、機首方位189から190度で、接触時まで水平定常飛行を行っていた[9]。

同じころ、教官機は高度約25,500ft(約7,800m)真対気速度約445kts/h(約824km/h)で右旋回を約180度行った後、約15秒直進して左旋回に移った。左旋回中に機の後ろ側、時計で6時半から7時の方向に、訓練機とそのすぐ後方に接近している全日空機を認め、直ちに訓練生に対し接触を回避するよう指示し、自らは訓練機を誘導する意図で右に旋回し、続いて左に反転し、墜落していく全日空機の下をくぐり抜けた[9]。

また、同じころ訓練機は、教官機の右側後方約25度の線上約5,500ft(約1,650m)の距離の地点の上側約3,000ft(約900m)を飛行し、教官機の右旋回と同時に飛行要領に基づいて高度を上げ下げして教官機の後を追った。ついで教官左旋回に追従しようと旋回中に、教官からの異常事態の通信が入り、その直後自機の右側、時計の4時から5時(120度〜150度)の方向至近距離に大きな物体を認め、直ちに回避操作を行ったが衝突した[9]。

訓練機は左60度バンク機動により回避を実施したが、約2秒前(距離約500m)からでは既に手遅れであった。そのうえ全日空機の進行方向に訓練生が回避する形となってしまったため、訓練生機に全日空機が追いつく形で接近し、訓練生機の右主翼付け根付近に全日空機が水平尾翼安定板左先端付近前縁(T字尾翼のため、機体の最も上の部分にある)を引っかけるような形で追突したとされる。

全日空機にはコックピット・ボイス・レコーダーは装備されていなかったが[10]、同機と千歳飛行場管制所、千歳ターミナル管制所および札幌管制区管制所との交信はすべて異常なく行われていた。全日空機が事故当時に135.9MHzで発信した音声が付近が飛行中の航空機によっても傍受されており[11]、これらの音声の分析により、コックピット内の状況が分析された[12]。これによれば、全日空機機長のブームマイクの送信ボタンが、衝突7秒前から0.3秒間、衝突2.5秒前から衝突5.5秒後までの8秒間にわたり空押し(キーイング)されていることがわかった。操縦士は、送信ボタンの空押しにより発するノイズが他の交信を妨害するため、意識的に空押しをすることは通常はない。これらから機長の動作を想定すると次のようになるという[7]。
衝突7秒前(14:02:32.1〜14:02:32.4):自己機の間近に訓練機を視認、あるいはそれ以前より視認していた訓練機が、予期に反し急接近してきたため、操縦輪を強く握る[7]。
衝突2.5秒前(14:02:36.5〜14:02:44.8):訓練機が斜め前方に接近してきたため緊張状態となり、再度操縦輪を強く握る。衝突後は機体の立て直しを行う[7]。
衝突9秒後(14:02:48〜14:02:54):機長は自機が操縦不可能であることを知り、次のような緊急通信を発する[7]。「エマージェンシー(緊急事態)、エマージェンシー、エマージェンシー、アーッ!」(全日空機機長の最期の言葉)[13]。

墜落 [編集]

その直後、双方の機体はともに操縦不能になった。全日空58便についてはしばらく降下しながら飛行していた。のち、水平安定板と昇降舵の機能を喪失していたため、降下姿勢から回復できず速度が急加速し、音速の壁を突破したことにより約15,000ft(約5000m)付近で空中分解し墜落、搭乗していた乗員乗客162名全員が死亡した。その時の音速の壁を突破した際のものと思われる衝撃音が盛岡市内の病院屋上など、墜落地から離れた場所でも確認されている。

衝突直後には大きな白い雲状の物が発生した事実を多くの者が目撃しており、写真撮影した者も複数いた。偶然近くの青森県上空を飛行していた東亜国内航空114便パイロットや、花巻上空を飛行していた全日空61便のパイロットが、58便からの状況を把握できず混乱した通信を傍受していたが、それもすぐに途絶えてしまった[2]。なお、操縦士らは地面に激突して大破した機首の中で発見された。また機体が空中分解したため、事件現場の近傍で働いていたり通行していた者は後年の番組等で「音がして外を見たら、(胡麻)粒のようなものが落ちていた」と語った。乗客たちは安庭小学校のある西安庭地区を中心とした雫石町内の各地に58便の残骸とともに落下し、極めて凄惨な状況で発見された。この際、落下した旅客機の車輪の残骸が民家の屋根を貫通し、当時81歳の住民の女性が負傷した[2]。

墜落の衝撃による火災はなかったため比較的早く犠牲者の身元が判明したが、遺体は高速で地上に叩き付けられため、極めて凄惨な状況を呈していたという[2]。また遺体を検死していた警察が犠牲者のうち1名を取り違えるミスをしたため、身元確認の精度について疑問が持たれることとなった。

一方の訓練生は、訓練機が接触後きりもみ状態になったため、射出座席装置のレバーを引こうとしたが手が届かず脱出できなかった。しかし、キャノピー(風防)が離脱していることに気づいたため、安全ベルトをはずし機体から脱出後パラシュートで生還した[14]。無人となった自衛隊機も空中分解し、田んぼに墜落した[2]。

全日空機と自衛隊機の残骸のほとんどは、東西約6km、南北約6kmの範囲に落下していた。全日空機の残骸は、左水平尾翼と垂直尾翼の一部を除いて、国鉄雫石駅の東2kmから3.5km、南3.5kmから5kmの範囲に落下した。訓練機の残骸は、右主翼以外は雫石駅の西約1kmの地点に、翼付根から先の右主翼は雫石駅の東1.3kmの地点に落下した

wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA%E6%A9%9F%E9%9B%AB%E7%9F%B3%E8%A1%9D%E7%AA%81%E4%BA%8B%E6%95%85




posted by じん at 01:31| Comment(1) | 行っては行けない場所 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月24日

『午後の紅茶』ディズニーデザインラベルをパラパラアニメにしてみた!!


『午後の紅茶』500mlボトルに描かれたディズニーキャラクターが、実はコマアニメになっていると話題になっています。各ボトルに描かれた3点のイラストには番号がついていて、順番に見ていくとディズニーキャラクターが動き出す、というもの。どんな動きを見せてくれるのか検証するために、パラパラアニメを作ってみることにしました。

『午後の紅茶』のストレートティーにはミッキーマウスが60パターン、ミルクティーにはドナルドダックが18パターン、レモンティーにはくまのプーさんが18パターン描かれています。


ボトルを回転させながら1本につき3パターンの写真を撮影。ミッキーマウスでは20本、ドナルドダックとプーさんでは6本ずつ撮影し、計96枚の写真からパラパラアニメを制作しました。写真同士でボトルの位置がずれたり光の加減が変わらないように、最新の注意を払って撮影しています。

『午後の紅茶』にプリントされたディズニーキャラを動かしてみるよ(YouTube)
http://youtu.be/Pq7EoK6g4-4



ガジェッタ通信
http://getnews.jp/archives/328589


これは予想以上に動きますねww

posted by じん at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 気になる食べ物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月23日

【木村秋則】奇跡のリンゴ 宇宙人と会っていた




木村秋則(きむら あきのり、1949年11月8日 - )は、世界で初めて無農薬・無施肥のリンゴの栽培に成功した日本の農家。株式会社木村興農社代表取締役。

生い立ち

1949年に、青森県岩木町(現弘前市)の三上家の次男として生まれた。青森県立弘前実業高等学校を卒業し、首都圏において会社員として勤めていた。

1971年に帰郷、りんご栽培を中心とした農業に取り掛かる。22歳でリンゴ農家の木村家の養子になって美千子と結婚。農薬に過剰反応する美千子をきっかけに、福岡正信の著作『自然農法』を参考にして無農薬のリンゴ栽培を考え出す。農薬をまく回数を年10回以上を5回、翌年には3回、翌年に1回に減らした。収穫量は落ちたが、農薬の経費が浮いたので、収益は悪くなかった。

自然栽培

1978年から本格的にりんご無農薬栽培に挑戦したが、日本の温帯湿潤な気候で無農薬で育てることは困難を極めた。 通常5月中に咲く花がようやく9月に咲き、果実は結実することなく小梅程度の大きさにとどまった。さらに害虫を手作業で駆除するなどの毎日の手入れも相当な労力だった。しかし、それだけ苦労を重ねても数年は実がなることもなく、10年近くにわたって収入のない状態が続く。そのような状況にあっても、自給のために育てた他の作物での無農薬・無施肥栽培において良好な成果をあげつつ、木村は少しずつりんごの栽培方法に改良を重ねていった。

最終的に木村を助けたのは、大豆の根粒菌の作用で土作りを行ったかつての経験だった。土の中の根張りをよくするため大豆を利用した木村のりんごの木は年々状態が上向いていった。1986年にはようやくリンゴの花が咲き、実も通常通りつくに至った。こうして木村が確立した無農薬・無施肥でのりんごの栽培方法は、従来の農家から不可能とされてきたことであり、弘前大学農学生命科学部の杉山修一[1] は「恐らく世界で初めてではないか」と評している。

技術の普及活動

木村は、国内外において自ら確立した技術の普及に努めており、韓国では無農薬栽培を指導した貢献をたたえられ、2009年11月、京畿道名誉市民、聞慶市名誉市民として表彰された。2011年指導した実験田のある石川県能登地域と新潟県佐渡市が国連食糧農業機関(FOA)によって世界重要農業資産システム(GIHAS:ジアス)に認定される。石川県羽咋市では、『第1回全国自然栽培フェアinはくい』が開催された。

このほか西日本では、2010年よりNPO法人岡山県木村式自然栽培実行委員会が木村を招聘し、岡山県の推奨米である「朝日米」の栽培について、自然栽培による農業指導を受けながら生産・流通を始め、2011年には桃の試作栽培にも着手。消費者・生産者の双方へ「自然栽培」の啓発活動を精力的に進めている。






「自殺からの脱出 1985.7/31」









約11年間もかけて無農薬/無肥料の自然栽培農法を実践した木村さんは、日々生きるために、キャバレーの客引きや東京での出稼ぎ、山谷での路上生活と、家族を養うために、必死に頑張る。



しかし、子供の学用品さえ買えなくなってしまいました。

そして、ついに無収入と生活苦に耐えられなくなるほど、経済的にも、精神的にも、肉体的にも健康が破壊され、もうダメだと死を覚悟でロープを持って、夕闇迫る岩木山へ向かいました。

そして、ロープを何度も木の枝に掛けようとしたのに、いくら投げても木の枝に引っかかりませんでした。  

その日は、月夜の景色のステキな日でした。 

その瞬間に月光に輝くリンゴの木を見つけました。(本当はドングリの木でした)

何故不毛の山に…?

いろいろと考えた結果、長い年月をかけて枯葉がたまり、下から順次腐敗して栄養となり、一方では、フワフワの土となって酸素と水を蓄える保水作用、さらに農薬なしで自然に免疫ができて、元気な実のなる木になったのではないかと考え、これだ!!と大発見したとばかりに再びパワーをいただき、無農薬・無肥料のチャレンジが開始されたのです。 
















「UFO/ETI事件 1974〜」







木村秋則さんの自宅の前で、上空約100m位のところに、UFO宇宙船が出現しました。(その事件は無農薬栽培を始める前の出来事) 



その日は、木村さんが家族や親戚、近隣住民に声掛けして、合計9人の方が丸型のUFOを目撃しました。

UFO宇宙船は、木村さんの自宅の屋根の上を横切り、やがてパッと消えてしまいました。

その後も、木村さんの自宅の前に午後7時ころに、いつも出現し、同じパターンで飛行して、最後にはパッと消える現象が何度も繰り返されました。 

そのUFO宇宙船は、オレンジ色で、スローで移動しました。  

木村さんの娘さんが、UFO宇宙船を目撃した時は、直径300m窓もハッキリと確認されました。  

またその後、母船と見られる巨大なUFO宇宙船(ジャンボ・ジェット機よりも大きい)が3度も確認されました。  

さらに、めずらしい丸型のUFOが、チカチカとネオン光に似た点滅発光するUFO宇宙船も自宅庭で目撃されました。

いずれの場合も、南側にある白神山方面から飛んできて北東方面へ去って行きました。



















「Abduction 1990」






1990年、深夜の2時頃、2階で1人寝ていたところ、部屋の窓が突然パッと開き、ロックしている戸も自動的に開いてしまいました。  

以上のUFO/ETIの事件は、無農薬のリンゴ農法で、やっと実りが見られるようになった数カ月後のことでした。    



以下は 木村秋則氏の証言です。

  

よくUFOや宇宙人のことを話すと、そんな話をしないでほしいとか。  

イメージが悪くなるという人がいます。  

しかしそれは、命がけで無農薬・無肥料の自然栽培を生み出した真相や苦しみ、絶望等の分からない人たち、知らない方々だから言えるのです。

私にとっては、UFOや宇宙人、臨死体験(NDE)、龍との出会いは、みんな一緒であり、相互に助け合う中で生まれてきたと思うのです。

私は、工業技術者の卵というか、ナゼどうしてとか物事を科学的に考えるところがあり、無宗教で、神様とか宗教には関心はありません。  

私がUFOや宇宙人と出会ったころは、最も苦しかった時であり、そのような時期に私の自宅やリンゴ畑に出現したのです。

リンゴ畑での仕事も遅くなり、そろそろバイクに乗って帰ろうとした時でした。  

畑の中をものすごいスピード(時速40km/h)で走りまわる2つの生命体が出現しました。 

身長は約150cm位で、黒メッキのような色をした光を出して、ビュンビュンと走り回っているように見えました。  

そして、しばらくして突然消えました。  

私は、直感的に宇宙人だなと思いました。



それから何日か経ってから、また宇宙人が出現しました。

その宇宙人は、ものすごい速さでリンゴ畑を走りまわりましたが、足が地面についていませんでした。 

しかも彼らは、足を動かさずに私のところへ近寄ってきました。

そして、シンシンシンと、とても静かな時に聞こえてくる音の後に、「私たちは、あなたに対して害を加えたりしません。」とテレパシーで伝えてきました。  

コトバではなく頭の中に意味だけを伝えてきたのです。



1990年の深夜2時ころ、2Fで寝ていたら2人のオリオン星人がスッーと入ってきました。  

よく見ると、リンゴ畑で見た目と頭の大きな2人の宇宙人と、まったく同じ姿をしていました。

2人のオリオン星人は、空中に浮いたまま移動しており、全身がやや黒く、2つの目と頭は大きいタイプでした。 



彼らオリオン宇宙人は、スッーと私の部屋へ入ってきて、2人で私の脇を片方ずつかかえて、そのまま窓の外へ連れ出しました。  

そして、上空へと上がり、下にはだんだん小さくなっていく自宅を眺めていました。

やがて、夜の闇の中に楯状の光が見えてきました。 

その光は、オレンジの光で縞模様になっていました。



ここで一度記憶が途切れてしまいました。

次の瞬間、気がつくと、UFO宇宙船内のベンチに座らせられていました。 

そこはとても静かなところで、まぶしい光につつまれた部屋でした。 

室内を見ると照明器具が一つもないのに、天井や壁など、全てのところが明るく、さらに宇宙船の全てがとてもキレイで、大変驚きました。



そのUFO宇宙船内のベンチの右横に、すでに2人の地球人が座っていました。  

私の隣には、白人の若い金髪の女性が座っていて、その隣には白人の若い男性が座っていました。

その白人の男性は、米国の海兵隊の軍人のようでした。 

この2人の男女は一切話をしませんでした。



しばらくするとオリオン宇宙人がやってきて、白人女性を連れて行きました。

その次に、白人男性が連れて行かれました。  

そしてまもなく、2人の宇宙人に先導されて移動しました。

私はUFO宇宙船の各部屋を見ながら行くと 先ほどの白人の方々は、それぞれ各自の部屋で、しっかりした台の上で、裸で寝かされてベルトで固定されているのが見えました。 

2人とも抵抗せずに寝ていました。

そして2人を囲むように、眼の大きい全員が同じ顔・姿をした宇宙人たちが5〜6人で観察していました。



私も同じように観察されるんだろうなと思いました。 

けっして「逃げたい」とか「怖い」という感情はありませんでした。

彼ら宇宙人(ETI)に両脇を抱えられた時から、ナゼか親近感を持つようになってしまいました。  

その後、2人の白人の方々は、観察室から別室へ移動しました。

私は、UFO宇宙船の操縦席へ案内され、そこでUFO推進システムについて「この宇宙船の推進システムは反重力を利用して動く推進装置で行われています。このエネルギー源の物質(厚さ1cm 一辺が20cm位の三角形の黒色の金属)を持って下さい。この物質はKという物で、数グラムで何十年も使えます。」との説明と、黒い物質を手に渡されました。

その物質は大変重いものでした。  

会話は全てテレパシーで行われました。



UFO宇宙船内の天井は、どこまでも高く見えました。 

次に見せられたのは地球カレンダーでした。  

そのカレンダーは ○年○月○日で終了していました。  

宇宙人さんの話では、後数年で終了するとのことでした。

しかし、その終了する年月は、絶対に言ってはならないと厳しく警告されました。 



それが終わると、座って待つように言われました。 

まもなく上の方に窓が見えてきたので、ベンチに立ちあがって窓をのぞくと、都会のような沢山の明かりが見えてきました。 

その後、白人の男女2人が歩いて入ってきました。 

すると、宇宙人さんは3人全員にそれぞれのプレゼントを下さいました。

その物質はとても重く、両手でやっと抱えると言う物でした。

私は、気がつくと2人の宇宙人に両脇をかかえられて、自宅2Fの窓の外にいましたが、そのままスッーと部屋へ戻ることができました。  

そして気持ちがハッキリしたら、彼らはもういなくなっていました。

以上のAbduction体験は、妻の美千子さん以外は、誰にも話しませんでした。

このAbduction事件から5年後、自宅でUFO/ETI特別番組を見ていた時です。

そこに登場した白人の女性は、確かに、あのUFO宇宙船で私の隣に座っていた女性でした。

しかも彼女が言っていた証言内容は、全て一致していました。

そのTVで、Abduction体験をした白人女性のインタビューで次のように証言しました。



「私のほかにも白人男性がおり、米軍の兵隊でした。さらにもう一人、メガネをつけた東洋人の男性が乗っていました。」と証言しました。   


その後2008年に、この女性は私のりんご農園にやってきました。  

その白人の女性によると、私をTVで見たときから、ぜひ一度会おうと決めて、「あのUFO宇宙船内で会った東洋人なのかどうか。自分のUFO/ETI体験は、本当に間違いないのかを確認しよう。」とやってきたとのことでした。

現在、白人女性は日本の長野県に在住しており、今もオリオン星人たちとコンタクトしていらっしゃるとのことでした。

こうして私の妻にしか話していない内容が、実はまったく同じUFO船内の部屋でいっしょに同席してAbduction体験したとする方々がおり、実際に発生した事件であることを確認することになりました。
posted by じん at 17:59| Comment(0) | 気になる食べ物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする